毛馬内盆踊りの由来
毛馬内盆踊りでは古くから「甚句」と「大の坂」の2曲が伝承されています。
「甚句」については
戦国時代の永禄10年(1567)に南部氏が安東氏との鹿角地域での戦いに勝ち、
毛馬内に凱旋した際に将兵をねぎらうために
「陣後踊り」を催したのが毛馬内盆踊りの起源となり、
それが「甚句踊り」と俗称されるようになったという言い伝えがあります。
また「大の坂」は
江戸時代の明暦3年(1657)、南部藩の桜庭光英が宮古から毛馬内に移封になった頃には、
この踊りがあったと言われます。
これらの言い伝えによれば、毛馬内盆踊りは450年の歴史を刻むことになります。
慶長3年(1598)頃に毛馬内の近くの白根金山が発見されると
伏見・大阪など関西からの商人が集まり、
物資の供給地として毛馬内では新町の建設も行われて大いに栄え、
盆踊りも盛大に行なわれたことが想像できます。
文献による記録では、三度にわたり鹿角を訪れている
江戸時代の紀行家菅江真澄の『百臼之図』文化5年(1808)があります。
これは諸国の臼を紹介するものですが、
毛馬内の臼として紫根染の染料の植物であるムラサキを臼に入れ、
杵でつく様子を描いた「むらさきうす」という図絵があります。
その解説のなかに「舂女歌」(杵でつきながら歌う歌)として下の唄の歌詞を記述しています。
ここは台の坂 ヲヤイテヤ七曲り
中のナア曲り目で ノヲヲヲ
日をヤイくらす ヲヤサキサイノ ソレヤヤイ
という歌詞で、盆踊りを思い出して唄うとあります。